展覧会は最終日でしたが、スペイン大使館で行われた「孤高のリアリズム 戸嶋靖昌展」を鑑賞してきました。
戸嶋靖昌、この展覧会で初めて知りました。ウィキペディアなどによると、栃木県に生まれ、秋田県に育ち、武蔵野美術大学で山口長男に師事し、ベラスケス・グレコ・スルバランらに興味を抱いて1974年にスペインに渡り、妻の死去をきっかけに2000年に帰国。帰国後の2006年、72歳で亡くなったそうです。 会場には、油絵68枚、彫刻3点、遺品(カメラなど)が展示されていました。油絵は1枚1枚とても強烈なのですが、強烈に印象に残った作品についての感想です(ネット上に画像が無いので、貼れるものだけリンクを貼ります)。 ●「魅せられたる魂 絶筆」 リンクの本の表紙になっているのがこの絵です。 上部の顔と下部の手だけははっきりと描いていますが、それ以外の身体の部分は描かず、背景に同化しています。人物画では、この絵のように対象のごく一部(主に顔)だけを描き、身体の他の部分は周囲に同化させて描く描き方は、彼独特の画法といえましょう(彼の全ての人物画がそうというわけではありませんが)。 この画法によって、顔として描かれた部分から「命がもたらす苦悩や悲哀から生まれる暗さ」、背景と同化している部分からは「生命や物質に備わる重力」が浮かび上がってくる印象です。 画集には「最期の時には永遠が支配する。」という一文が併載されていました。この作品は戸嶋靖昌を支援していた執行草舟氏を描いた作品です。執行草舟氏はまだご活躍のようですので、ここでいう「最期」とは画家自身のことでしょうか。 死期を悟り、冥界へと入りつつあるなかで、生きている間の個の部分が削ぎ落とされ、個に備わっていた「普遍的な部分」が永劫性をもって冥界で生き続ける。 決して老人に限らず、人は誰しも、生まれた瞬間から「死ぬ瞬間」に向かって生き続けています。生まれたての赤ん坊の頃は、自分だけという個性のようなものはないのでしょうが、育ちに従い個性が形成されます。そして、死ぬということは、個性の部分が完全に削ぎ落とされ、「歴史の中での人類」という普遍的な(赤ん坊のときのような)状態に入ることを意味するのかもしれません。 抽象的な表現しか思い浮かばず、拙文で恥ずかしいかぎりなのですが、この絵からはそんなことを感じました。 ●「裸-Ra-」 こちらのサイトに画像はあります。 こちらのサイトにも書かれているとおり、画家自身の「腐っていく過程こそが肉体なのだ。だから、愛情がなければそれを見つめることがはできない。」という言葉が併載されています。 眼の前で肉体が腐っているわけではないにしても、多くのヌード画のように裸婦を美しく描こうとはせず、成人であれば誰しも避けることができない「肉体的な衰え」を強調するかのようなトーンで描いています。うっすらと死を感じさせる「背景への同化」も、少しですが始まっています。 瞬間のリアリズムと、その時点から死期まで絶え間なく続く「肉体の腐敗」という未来へのリアリズム。彼の絵は、徹底したリアリズムです。「好き嫌いを問わず、肉体の衰えは死期に向かって着実に進行し、最後は朽ち果てていくものである。だからこそ、今のこの瞬間の美しい肉体美を描いて、留めておきたい。絵を通して肉体を見つめることは、相手を愛おしむことであり、ひいては自分をも愛おしむこととなる。」というふうに解釈しました。 ●「desnudaの象(かたち)」 「象」と書いて「かたち」と読みます。ネット上に画像はありませんが、こちらもヌードで、彼の絵にしては少し明るめの色調でした。 図録には「女とは生命。善と悪とが交叉する永遠性であろう。」と書かれています。 全ての「善」も「悪」も、人間から作り出されます。その人間は、母親から産まれてきます。 この「女とは生命。善と悪とが交叉する永遠性であろう。」という言葉は、個人的にはとてもしっくりくるものがあります。 異性への憧憬も、この「腐敗が続きいつかは死ぬ人生。だからこそ、永遠なるものに少しでも寄り縋って生きていたい」という、心の恥ずかしくも切なる渇望を満たすということもあるのかな、と考えたりしました。 感じ方はさまざまですが、彼の絵に観る「人間の普遍的なリアリズム」は、自分自身にも内在する普遍性・永遠性を自覚させ、浮かび上がらせてくれます。 彼の絵は、一見判りにくい絵ばかりなのですが、凝視するほどに対象の表現する普遍性・永遠性が浮かび上がり、観えてくるような気がします。 ●「老女ベルタ」 この展覧会、大使館内という制約からか、絵葉書などの物品は無いものの、鑑賞者は出口で「好きな絵の絵葉書1枚」と「クリアファイル」をいただくことができます。 入場無料なうえ絵葉書とクリアファイルまでいただくことができ、とてもお得感のある展覧会でしたが、その「出口で選んだ絵葉書の1枚」がこの絵でした。 絵葉書にも画家の言葉として「老人という説明で終わるのではなく、歴史の荘厳さを抽出したい。」とあります。 老女としては、頭部と両手だけが描かれ、その他の部分はぼやっと背景に同化する形で描かれています。 年齢的に死期が迫りつつも、長年の人生で辛いこと・嬉しいことを重ね、苦悩のうちに長年を過ごしてきた彼女の人生の軌跡といったものが、画面全体から見えてくるようです。 老女は、ほうれい線のあたりをよく見ると、少し微笑んでいるようにも見えます。 画風は、会場に置いてあった図録には「ベラスケスを意識していた」という記述もありました。ベラスケスといえばプラド美術館にある「ラス・メニーナス」 や「教皇インノケンティウス10世」 を思い浮かべます。とりわけ「教皇インノケンティウス10世」は、本来なら聖人として神格化しながら描くべきローマ教皇を憂鬱かつリアルな表情で描いてしまい、当時大変な物議を醸し出した作品です。「対象人物の内面に潜む立場や苦悩を徹底的に凝視し、それらを極めてリアルに描き切る」という点がベラスケスの特徴であり、特異点です。 戸嶋靖昌の絵も、画風はベラスケスとは全く異なり自己流(戸嶋靖昌流)を究め貫きつつも、「対象のもたらず悲哀・暗さ・重みを徹底的に凝視し、それらをエッセンスとして抽出し、完璧に描き切る」という点ではベラスケスと全く同じ、と言えるのではないでしょうか。 会場に居た鑑賞者が「暗い絵ばかり・・・」と感想を漏らしていました。 確かに、彼の絵は一見暗い絵ばかりかもしれません。でも、この暗さを直視して人間の宿命みたいな業を凝視できないと、逆に希望や喜びといったものも見出すことができないのでは、と感じました。 そう思うと、決して「暗い絵」ばかりとは言えず、レンブラントやラトゥールの絵のような、暗い中だからこそ生きていくうえでの光明を見出せるような「明るさ」や「深さ」を、「老女ベルタ」で触れたような、人生の最後を悟ったような微笑の明るさを、多くの絵から感じていました。 そして、それらの、歴史や人類に至る深みを、人物として観る人に分かりやすく呈示してくれるのが、彼のリアリズムの真骨頂でないかと感じました。 この感想も、他の展覧会の感想に比べ、とても書きにくいものがありました。 それは、他に画風が近い画家が居ないため、比較ができにくいからです。 あえてキーワードを探すと、上記のベラスケスと、大学で師事した山口長男でしょうか。 山口長男は抽象画で「色や形がもたらす重み」を感じさせる作風です。 この恩師の「重み」を、「描かれる人物の人生」へと具体的にチャンクダウンさせた教え子、と言えるのではないでしょうか。
あまりに強烈な絵ばかりでしたので感想もまとまりきれませんが、観るほどに心に深く沈み込む絵ばかりでした。 大使館なので入館時にはセキュリティ・チェックも通されましたが、プチ・スペイン旅行的な雰囲気も楽しみつつ、スペイン大使館を後にしました。
by zouchan6
| 2015-11-29 07:08
| 美術鑑賞 art watching
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