今回の北海道は美術館訪問がメインではなく、別件ついでのアート紀行ですが、長年の念願だった音威子府(おといねっぷ)の砂澤ビッキ記念館を僥倖にも訪れる機会を得ました。 記念館は北海道中川郡音威子府村字筬島(おさじま)という、北海道の広大な畑の中に位置しています。 ・砂澤ビッキ記念館 音威子府(おといねっぷ)村、人口が約850人と「北海道で一番小さな村」ながら、北海道命名の地とされています。 地理的には北海道の北にあります。 音威子府という地名の由来は「アイヌ語で濁った泥川、漂木の堆積する川口、または切れ曲がる川尻」を意味するのだそうです(音威子府村ホームページより)。 実際、村の中心部を天塩川が流れています。 ・北海道命名之地から望む天塩川 晩年を音威子府村で活動した彫刻家の砂澤ビッキ。学生時代に知りました。当時はまだ存命でした。 今年4月、神奈川県立近代美術館葉山で「木魂(こだま)を彫る−砂澤ビッキ展」が開催されました。 (神奈川県立近代美術館葉山にて自ら撮影) 「今年のおすすめ展覧会」にも挙げていた、久々の回顧展です。作品数は多くなかったものの、「神の舌」「風に聴く」など代表的な大型作品が展示され、海に面した広い展示空間の中でビッキの息吹を感じられる、清々しい展覧会でした。 砂澤ビッキ、ご存じでない方も多いかと思います。 砂澤ビッキは、1931年に北海道旭川市でアイヌの両親の下に生まれます。本名は砂澤恒雄。「ビッキ」は幼少の頃からの愛称(アイヌ語で「蛙」)です。 家は「父、兄の制作する彫刻を眺めながら私は育った。父親たちは、夏は農作業、不雪が降り始めると狩猟をして、そのなかに彫刻をするという生活があった」と回顧しています。 ・父トアカンノ作のレリーフ また、母ベラモンコロはアイヌ紋様刺繍の名手としても知られていたようです。 ・母ベラモンコロのアイヌ紋様刺繍 アイヌ民族は古来から、動物や自然、家などの全てに神(カムイ)が宿るとして敬い、独特の自然観・民族文化を築き上げてきました。アイヌ民族の女性・知里幸惠が「アイヌ神謡集」の前言にこう記しています。 「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう」 (青空文庫より) しかし、砂澤ビッキは小学生の頃からアイヌとしての差別を受けていたようで「アイヌの俺は、子供仲間でも、よくいじめられた。だから、学校は大嫌いだった。そんな差別をつけられる学校へ行くよりも、俺は一人で山へ行き、牛や羊と一緒にいる事を好んだ。自然は俺を差別しなかったからだ」とも回顧しています。この頃は、壁や木片に絵を描くことを唯一の楽しみにしていたようです。 10代のビッキは道立農業講習所(現、道立農業大学校)で動物の世話をしながら動物を題材に絵を描き始めます。旭川で開拓労働やし尿汲み取りに携わりながら父の細工を手本に彫刻を始め、父が亡くなった二十歳に母の住む阿寒湖畔に移り、土産店を営みながら自ら店頭で土産品の彫刻をしていました。阿寒で働いていた彼は、独特の風貌・感性から、武田泰淳の小説『森と湖のまつり』のモデルにもなっています。 その後、店で出会った人との関係で文化人との交流が始まり「アイヌ民族として、土産品の彫刻に留まっていてよいのか?」という疑問から芸術家としての道を歩きはじめます。 彼の作品は、前稿・北海道アート紀行①(札幌芸術の森)で紹介した「四つの風」はじめ、 抽象性の高い木彫の大型作品が中心です。 ・4つの風 (札幌芸術の森にて自ら撮影) 1978年、彼は原木を求めて札幌から音威子府村へと移住します。 1983年、51歳の時にカナダのブリティッシュ・コロンビア州に3か月間滞在し、ハイダ族の彫刻家ビル・リードと交流します。 ・ビル・リード「カラスと最初の人類」 (画像はウィキペディアから) この作品「苦悩をもって生まれ、苦悩をもって生き続けている人類・人間の姿」でしょうか。砂澤ビッキの作品に同じく、思惟深い作品です。 その後、砂澤ビッキは廃校となった小学校跡(現在の砂澤ビッキ記念館)をアトリエとして活動していましたが、1989年1月に57歳の生涯を閉じました。 彼の紹介に触れたのは、「芸術一家に生まれ、小さな頃から芸術に囲まれ、美大で彫刻を学んだ後、有名な彫刻家に師事しながら修行を重ね、●●展新人賞を獲得した翌年に個展を開催。ニューヨークにアトリエを構え…」みたいな都会のスマートな彫刻家とは全く異なった環境で彫刻家になっている点をぜひ知っていただきたかったからです。 紹介長くなりましたが、記念館に入って見ましょう。 入口を入ると「風 風の回廊」という長い廊下を通ります。左右には砂澤ビッキのデッサンやドローイング、小作品が展示されています。 ・風の回廊 この回廊には、北海道大学中川研究林で録音された「風」の音が響き渡っています。この研究林には、ビッキが愛し「ビッキの木」と呼ばれるアカエゾマツの大木が今でもあります。 ・題名不詳 伊勢海老の殻にアイヌ紋様が刻まれています。 ビッキの彫刻技術の高さが感じられます。 ・題名不詳 阿寒湖畔で土産物店を営んでいたビッキらしい版画です。素朴な画風ながらも、人間と動物の厳粛で親しみ深い関係が感じられます。 ・「考える人・動物の時限」(1955年) 第5回モダンアート協会展で初入選した作品です。 「眼のある生物が、4本の指で何かを掴もうとしている」ように見えます。 明瞭な線、暖色系の色遣いから、24歳と若いビッキの精気溢れる意欲が感じられます。 ・「生面」(1975年) 木面シリーズ12点のうちの1枚です。 「面」と題し顔面の輪郭をしながら、表情が無いので不気味に感じられます。「ときに人間を天災で襲う、自然の表情」とも受け取れませんでしょうか。 ・春の王妃(1988年) 亡くなる前年、入院先である旭川医科大学付属病院の病室の窓から眺めた大雪連峰を描いています。 ・西方の美瑛町から大雪山の山影 (画像はウィキペディアから) この絵を観ても、砂澤ビッキの絵の上手さが伝わってきます。闘病中の死をも意識した不安な様子が、輪郭の崩れ具合は絵の具の掻き具合から推察されます。 それでも、大雪山を「王妃」と題するあたりが、生への希望を捨てていない彼ならでは感性です。 次に、入口から最奥部にある「トーテムポールの木霊」という部屋に移ります。 最初に見えてくるのは、音威子府駅前に建てられていた彼の作品「オトイネップタワー」の頭頂部です。他の部分とともにここに保存展示されています。 オトイネップタワー、高さ15メートルある音威子府のシンボルタワーで、動物や時計などが彫られていました。1980年に建てられましたが、風雪による腐食と強風により1990年に撤去されました。 ・プランNo.1(1979年) オトイネップタワーの建立にあたり村議会へ提出された試作品で、素材はナラです。 オトイネップタワーが建立された際は街が盛り上がり、村民にビッキがデザインした手ぬぐいが記念品として配られました。 最上部には北斗七星と、アイヌで神とされているエゾフクロウ?、OTOINEPPUの文言の下には「蒸気機関車の動輪」「農協の旧マーク」などがあしらわれています。 同じ意匠の手ぬぐいがお土産で発売されていましたので、今回買わせていただきました。 「土 トーテムポールの木霊」という部屋から「人 ビッキからのメッセージ」という部屋に移ります。 細長く暗い部屋の正面には写真と作品、デスマスクが置かれています。 ・写真と作品 ・デスマスク 手前の床には彼のメッセージが投射されます。 「風よ お前は四頭四脚の獣 お前は狂暴だけに 人間達はお前の中間のひとときを愛する それを四季という 願はくば俺に最も 激しい風を全身にふきつけてくれ 風よお前は 四頭四脚なのだから 四脚の素敵な ズボンを贈りたいと 思っている そうして一度抱いてくれぬか 1988 秋 ビッキ」 初期から後期までほぼ共通しますが、砂澤ビッキの作品は木彫を主体に、樹木や風などの自然や自然現象の内部に宿る「樹の精」「風の精」といった抽象的な存在を具体的に表現しているように見えます。それらの精霊(カムイ?)は、人間や動物とも異なった異形の生物のような存在として表されています。 「木をノミで削ることで、ときには絵筆を執ることで、砂澤ビッキは自然や自然現象に存在する精霊(カムイ)を表に出させている」とも言えましょう。 この「アイヌ民族の伝統的な自然観と木彫技術によりながら、大木とノミで格闘し、彼が自然や自然現象の中に見る精霊をその素材の中に現出させる」ことが彼のテーマであり、作品を読み解く鍵だと思います。 いよいよ「人 ビッキからのメッセージ」の部屋の隣にあり、彼のアトリエでもあった「森 午前3時の部屋」へと進みます。 参考文献:柴橋伴夫『風の王: 砂澤ビッキの世界』(2001年/響文社) (注釈の無い画像は全て自ら撮影)
by zouchan6
| 2017-09-07 17:48
| 美術鑑賞 art watching
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