石田徹也展からの続きです。
彼の作品から、心に刺さった作品を紹介します。 ●無題 夜になると、団地では多くの世帯でテレビを見ています。実際、多くの家庭で「テレビ」は居間の中心に置かれており、家庭生活の中心的な電化製品であるとも言えます。 団地の各世帯でそのテレビを見る光景は、あまりに均質化された「監獄」のようにも思えます。職場や学校でもさまざまな自由を奪われているだけでなく、本来自由なはずの家庭においても、テレビという大衆的なメディアに支配され、団地という「箱」のなかに閉じ込められているのです。 ●トイレへ逃げ込む人 私見ですが、企業を訪問するたび「トイレに出入りする社員が多い職場ほど、ストレスが高い職場」という印象があります。トイレは、組織におけるストレス抑圧への調整弁として多少機能しているように思えます。そんなストレス回避・現実回避のためにトイレに籠る社員の心象を物語っているように思えました。 ●ぐち サラリーマンが、腰を屈めながら、卑屈で悲しい表情を浮かべ、カバンを持ち上げています。まさに、上司のカバンを持ち、クレーンリフトのように作業に明け暮れ身も心もボロボロになっていくサラリーマンの姿、といえるのいではないでしょうか。 ●無題 サラリーマンシリーズを終えた彼の次のステージでは、はしご車で消防士に救出される絵がいくつかあります。なかでもこの絵は、マンションのベランダと思しき所から救出し、しかもベランダの内部からはしご車が伸びている、不思議な感じの作品です。「ごくありふれた日常生活の中からの救出」を意味するのでしょうか? とても、不思議な感じです。 ●説教 ノートによると、高校の部活で顧問にグランドで説教される場面がモチーフのようです。説教する顧問側は生徒に説教するたび“排泄行為が終わったときのように”すっきりするのでしょうが、説教された生徒にしてみれば呆然となると同時に涙が出るほど悲しい思いにさせられます。そんな「する側とされる側の感情的な相違」が非常に顕著に表れている1枚だと思います。 ●無題 彼にしては珍しく、女性を主人公とする作品です。目を閉じる表情、下半身の巨大な洗濯バサミと、床に散らかる洗濯バサミは、生理など女性特有の痛みを表現しているのでしょうか。椅子の下で傍若無人に佇む猫達は、他人の痛みに鈍感な人々の暗喩とも見えます。 ●無題 『ノート』によると、家々の光景は彼の実家への帰省を意味しているようですが、見方によっては、郊外の「似たり寄ったりで平凡・無表情な戸建」へ帰宅するサラリーマンのようにも見えます。上の画面と下の画面の2つで構成されていますが、半開きのドアというモチーフを介して、上の画面と下の画面が接続されています。窓のない家々は、「中に住む人が窺えず、外からも光が入らない」閉塞的な日本の家庭を反映しているようです。 展示室ではどの絵も、深く魅入り、深く考えさせられました。 石田徹也は終始、精神的・物理的に拘束される人々やその社会の姿を描いています。 彼は、彼らをモチーフに絵を精緻に描きながら、シュルレアリスティック(超現実的)な手法を用いて、人間の思考や絵画の「自由で無限の創造の可能性」を提示してくれている、といえるのではないでしょうか。 観ている側としては、彼の絵から「精神的・物理的に拘束される今の自分や社会の姿」と「自由で無限の創造の可能性」を突き付けられ、その回答・対抗策が出ないことにいら立ちを覚えながら、彼の絵を観た経験が心に深く刺さっていくように思えます。 一度訪問し、画集を眺めていると、思索の場として、会期中に再訪してみたいと思いました。 前回は仕事を午後に休んで往復高速で駆けつけましたが、今度は1日ゆっくりとって、ついでに違う道(246→第三京浜→横浜新道→国道1)でのんびりチープにバイクも楽しもうかな、と。
by zouchan6
| 2014-05-08 14:43
| 美術鑑賞 art watching
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