前回の横浜美術館 メアリー・カサット展 を訪れて①からの続きです。
・ロバート・S・カサット夫人、画家の母 (図録より) カサットは家族の肖像画を何枚か描いています。 母、姉、兄と描いていますが、それぞれ描き方が異なります。 とても親しかった姉は、日常風景のひとコマを切り取るように、深い親しみを込めつつ動的に描いています。 ・タピストリーの織機に向かうリディア (図録より) そして、母親は座っているところを斜め前から静かに描いています。 遠くを見据える視線、両手の指に込めた力、ドレスの大きさ、背景に花を絵を描く完璧で意味深な構図、その背景はぼかした筆で曖昧に描きつつも母親の眼は明瞭に描くなど、カサットの母への深い尊敬の念と母親の深い威厳が伝わってきます。 母を描いた絵としては、同じくアメリカ人で印象派の時期に活動したホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント-母の肖像」とも似たような印象を受けます。 (画像はウィキペディアから) 時期としては、ホイッスラーのほうが1871年、カサットのほうが1889年に描いています。カサットは、同じ「アメリカで育ち、ヨーロッパで活動する画家」としてホイッスラーから多少の影響を受けたかもしれません。 ・地図 (図録より) カサットは、油絵のほか、水彩画、版画など、絵画のさまざまなジャンルに挑戦します。 この「地図」は、ドライポイントという、鋭い針を使って銅板に彫り込む版画技法を使っています。 2人の女性が並びながら、机の上に地図を描いています。少ない線ながら描写内容はしっかりと伝わってきます。描かれている部分と余白、直線と曲線がバランスよく組み合わさっています。広い余白空間から、部屋の静寂な雰囲気まで伝わってきます。2人の女性の親密さが伝わってくるとともに、すべてが2人のためにあるかのような空間です。 ドライポイントならではの、一見簡素ながら、簡素だからこそ、カサットの技量の高さがストレートに伝わってくる作品です。 ・化粧台の前のデニス (図録より) ・喜多川歌麿「高嶋おひさ 合わせ鏡」 (画像はウィキペディアから) カサットは、日本の浮世絵にも深い興味を示しました。「化粧台の前のデニス」の合わせ鏡は、歌麿の「高嶋おひさ 合わせ鏡」より着想を得ており、2枚は並べて展示されています。 ゴッホだけではありません。モネ、マネ、ドガ、ルノワール、印象派の画家は日本の浮世絵に押しなべて深い興味を示していますが、カサットも興味を示しています。 このように、カサットは絵画に関するさまざまな技法を吸収するのに積極的です。この意欲がカサットの技術をますます高めていきます。 ・夏の日 (画像はウィキペディアから) 家族でボート遊びをする一瞬の風景を、カサットならではの点描で描いています。 点描は印象派の点描の中でも粗いほうですが、モチーフははっきり認識できますし、点描の粗さが水面に映る太陽光の強さ、光の色や形の多様さ、ボートの動きを伝えます。女の子の髪が風になびいていないので、水面の粗さはボートと鴨の動きによるものと思われます。 映像ではないにも関わらず、写真よりも動的な感じを与える点が、印象派の点描の1つの大きな効果といえます。 その技法をしっかりと表現できるカサットは、日本ではあまり知られていないながらも、モネ・セザンヌをはじめ印象派を代表する画家といっても過言ではありません。 ・モネ「舟遊び」(国立西洋美術館) (画像はウィキペディアから) 描く視点をはじめ、構図がとても似た絵です。2枚を比較することで、共通点や相違点(画家の特徴)を把握できます。 ちなみに、この絵も世界遺産に登録された国立西洋美術館の常設展に展示されています。 「絵の見方・番外編(2)」でも紹介しましたが、国立西洋美術館の常設展は非常に見応えがあります。世界遺産登録でにわかに注目されていますが、コルビジェの建築だけでなく、絵も注目していただきたいところですが…… 余談さておき、カサットがこの頃に描き「夏の日」に似た「舟遊び」ボートの絵が、アメリカで切手に採用されています。 ・舟遊び(ワシントン・ナショナル・ギャラリー) (画像はウィキペディアから) このころらも、カサットは後期の主なモチーフとなる「母と子」を多く描くようになります。 ・「果実をとろうとする子供」 (図録から) ご覧のとおり、林檎をもごうとする子供を母親と思しき女性が抱えています。 私は「なぜこの子は全裸なんだろう? 普通は服を着ているのでは・・・」「背景の下部の緑は何を描いているのか? 緑にしては曖昧では?」「西洋画で林檎と言えば、言わずと知れた禁断の果実。やはりそういう意味なのだろうか?」と、いろいろなことを考えながら観ていました。 そして、今回一緒に観ていた人からこう言われました。 「さっきから気になっていたのですが、カサットの絵の母子、親子の視線が少しずれていませんか? 子供は母親を見つめていても、母親は子供を見ていないような気がして気になって・・・・・・」 言われるまで全く気付きませんでした。そう思ってあらためて観ると、確かに、家族の視線は、わずかずつですが、かみ合っていないようにも見えます。 そして、よくよく眺めていると、親も子とも、表情はどこか物憂げな感じすらします。 ・家族 (図録から) ・母親と2人の子供 (図録から) ・母の愛撫 (図録から) カサットの印象としては「母と子の深い愛情」という単純な結論になりがちです。でも、視線や表情を深く観察していくと、そう単純に「母と子の深い愛情」とだけは結論付けられないような気がします。「大人になることの不安」「遠くを見据えて感じる将来への不安」「母と子の微妙にすれ違う思い」など、「糸が絡まったような」多くの複雑な事柄感じられます。 その、単純ではない複雑な思いを感じられる点がカサットの絵の深みだと気付きました。 そして、その「糸が絡まったような」複雑さは、アメリカの親元を離れパリで画業を重ねるカサット自身が経験したことなのでは、と、想像しました。 前回の国吉康雄展に引き続き、母国を捨てて海外に移り住んだ人としての「深み」と言ってもいいような。 前回の国吉康雄展に同じく、絵は詩や小説ではない以上、メッセージや解釈に正解はありません。 上記の「家族」にカーネーションが描かれていたり、「果実をとろうとする子供」に林檎が描かれていたりすると、ついその物をアトリビュート(隠喩)ととらえて解釈しがちで、さも正しいように思えますが、あくまで私見に過ぎません。 その私見が生まれる余地こそ、絵画鑑賞の醍醐味にほかなりません。 私も、今回一緒に観ていた人からこう言われるまで「母子密着」の印象しか感じませんでした。 ところが、その一言で、目が覚めたような思いがしました。 同じ1つの絵なのに、別の視点で眺めてみると、印象が全く異なってくるからです。 だいぶ以前の「絵の見方 (3)」に「できれば人と一緒に鑑賞するほうがいい」と書きました。 日程調整などの手間もありますが、絵は人と語り合いながら観たほうが、見方や解釈が大きく広がりますし、自らの偏りも矯正されます。 そしてなにより、人と思いを感じ合えることが、何にも増して楽しいことだと思えます。 今回の鑑賞は、その思いを強くさせてくれました。 カサットに話を戻します。 カサットは、後期になっても上記の「母親と2人の子供」では丸い絵に挑戦したりと、後期になって画風が完成されたように見えても、さまざまな挑戦を重ね続けています。当時の女性画家として先駆的なフロンティアとも言える、アメリカ人らしい彼女の意欲・人生観も見逃せない点です。 展覧会の最後に、カサットが絵付けした花瓶が展示されていました。 ・花瓶:子どもたちの輪 (図録より) 絵ほどの深い感興は覚えませんが、色合い、筆使い、輪郭線はカサットならではとの印象も受けます。そしてこれも彼女の「挑戦」の1つです。 1人の画家の作品を集中的に展示する回顧展では、1枚の絵を観ただけでは分からない画家の生涯や思想などを広く深く知ることができます。 回顧展では、画家の実像に迫るため、「花瓶:子どもたちの輪」のような絵画以外の作品、手記、年表、手紙、道具、映像など、絵画以外の物の展示も期待したいところです。 その意味でも、横浜美術館のカサット展は、絵画以外の物の展示も多く、見応えのあるものでした。 「35年ぶりの回顧展となると、次回の回顧展は35年後になってしまうのだろうか?」と思うと、とても貴重に思えてくる展覧会でした。
by zouchan6
| 2016-07-19 04:53
| 美術鑑賞 art watching
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